お便りは
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〒891-0141 鹿児島市谷山中央
2011.9.23撮影
アメリカ合衆国 ニューヨーク バッテリー・パークから見た自由の女神 イントレピッド海上航空宇宙博物館(Intrepid Sea-Air-Space
Museum)を見学した後、横の桟橋から出ているセミ・サークル・クルーズでマンハッタン島周辺の景色を楽しむ予定でしたが、天候が悪かったためか集客が少なく予定のクルーズがキャンセルとなってしまいました。仕方がないので、バッテリー・パークに行き自由の女神等を見ることにしました。あいにくの天気のため、リバティ島はかすんでいましたが、自由の女神を遠目に見ることは何とかできました。
2011.9.23撮影
アメリカ合衆国 ニューヨーク イントレピッド海洋航空宇宙博物館のコンコルド イントレピッド海上航空宇宙博物館(Intrepid Sea-Air-Space Museum)はニューヨーク市にある博物館で1982年に開館。アメリカ海軍で使用されていた航空母艦イントレピッドを利用したものであり、艦船や航空機の展示を行っている。ニューヨークのマンハッタン西岸・86番桟橋にあり、イントレピッド財団が運営を行っている。空母イントレピッドは1986年にアメリカ合衆国国定歴史建造物に指定され同博物館の本館として機能しており、飛行甲板上には各種航空機が展示されている。この他86番桟橋では潜水艦やコンコルドも展示されている。
我々はこのコンコルドを目当てにConcorde Tourに参加し堪能したが、超音速機とはいえ、さすがに機内の狭さには驚いてしまいました。
2011.9.23撮影
アメリカ合衆国 ニューヨーク マンハッタン タイムズ・スクエア タイムズ・スクエア(Times Square)は、アメリカ合衆国ニューヨーク市マンハッタンのミッドタウンにある繁華街・交差点の名称で、マンハッタン島の42丁目と7番街、ブロードウェイの交差を中心に位置し、世界中からの観光客が集まる場所でもあり、ここの交差点は世界の交差点と言われている。
残念ながら雨のニューヨークとなってしまいましたが、これがニューヨークなんだという印象を強く持ってしまいました。
2011.9.22撮影
カナダ ナイアガラ・フォールズ 夜のナイアガラの滝 高さ54m幅670mの巨大な滝はカナダとアメリカの両国にまたがっており、カナダ滝とアメリカ滝(最も右側の細い滝はその姿からブライベール滝と呼ばれている)から成っている。特にカナダ滝は急カーブで弓なりになった形からホースシュー(馬蹄)滝とも呼ばれ、フォトジェニックな景観で人々を魅了している。
写真はナイアガラの滝を見下ろす地上160mのスカイロン・タワー(街で最も高い展望タワー)から撮影したものです。
2011.9.22撮影
カナダ ナイアガラ・フォールズ ナイアガラの滝 南米のイグアスの滝、アフリカのビクトリアの滝と並ぶ世界3大瀑布のひとつであるナイアガラの滝はネイティブ・カナディアンが呼んでいた「ニアガル(雷轟く水)」が名前の語源とか。今回2回目の訪問であったが、200年程前から観光地として栄えているだけあり、前回(2007年)訪問した時との変化は感じられなかった。ただ、滝全体の規模ではイグアスの滝、ビクトリアの滝には及ばないが、アメリカ滝、カナダ滝という大きな滝の観光のしやすさにおいては三大瀑布の中では随一という印象を改めて感じてしまいました。
写真はカナダ滝の滝壷に向かう遊覧船「霧の乙女号(Maid of the Mist)」が丁度二重の虹がかかったところにさしかかった所を撮影したものです。
2011.9.21撮影
ペルー ナスカ ナスカの地上絵4 地表の黒い石や砂をどけただけの地上絵が何故現代まで残っていたのか。年間を通じてほとんど雨が降らない気候が可能にしたとも云われているがそれだけで残ったとも思われない。地上絵を世界的に有名にしたポール・コソック氏の研究を継ぎ、ナスカに半生を捧げたマリア・ライヘ女史は日々ほうきで掃除し、地上絵の線をわかりやすくしていたとの話もあるので、現在に伝わっていない影の功績(努力)があったのかもしれない。いずれにしろ、それらのおかげで我々が今の時代に見ることができるのはありがたいことである。
4回目はその他写真撮影できた主だった地上絵を並べてみました。(撮影時は倍率がいろいろ異なっていたため同じ倍率に補正して掲載しています。それでも撮影時の高度が異なっているためか、実際の大きさで比較すると違うかなというものもあります。また、掲載写真の大きさの関係上、わかりづらくなっているものもあります。)
左上から順に
1.鯨(全長63m):いろいろな角度からたくさん撮影していました。
2.犬(全長51m):その場でははっきり確認できずシャッターを押していたのですが小さく写っていました。
3.オウム(全長200m):全体がおおきいためか、はっきりと確認できました。
4.宇宙人(全長35m):他の絵と異なり山腹に描かれておりわかりやすかったです。
下の段に写って左から順に
5.クモ(全長46m):その場でははっきりと確認することができず、あたりをつけて倍率を押さえて撮影したら写っていましたが、写真でもわかりづらいです。
6.パリワナ:(全長280m):フラミンゴとも言われています。8番のペリカンしかわからなかったのですが、位置関係から写真に写っていました。でも、上記写真ではほとんどわからなくなってしまいました。
7.サル(全長110m):この絵もわかりにくかったです。とりあえず写っていました。
8.ペリカン(全長不明):グンカンドリとも言われているようです。最初はくちばしの先端からさらにまっすぐに何本もの線が300m以上ものびていた(写真では右斜め上の方向)ため形が確認しずらかったです。
※最後になりますが、地上絵をわかりやすくするため、掲載写真はコントラストを強くしています。そのため、大地も緑黒っぽくなっていますが、実際は灰色っぽい砂漠という感じの色をしていました。
2011.9.21撮影
ペルー ナスカ ナスカの地上絵3 地上絵の大きさは約10mから大きなもので約300mにもおよび、その数はおよそ30個とのこと。線や幾何学模様は300本にもおよび大きいものは約50kmもあることがわかり、さらに謎が深まっているようでした。
3回目は象徴的な地上絵であるコンドルです。
この絵は全長136mとのこと、平原の中央部にあり、さっと目に入ってきました。
2011.9.21撮影
ペルー ナスカ ナスカの地上絵2 紀元前後から800年頃にかけて海岸から80km程の乾燥地帯にひとつの文化が栄えていた。それが謎の地上絵で知られるナスカ文化である。ナスカの人々は広大な大平原(パンパ・インヘニオ)に何を思ってか300にも渡る直線を引き、三角形の図形、動物、魚、植物などの絵を描いた。それも空中からでないとわからない程の大きさで、いったいこれらは何を意味しているのだろうか。いろいろな仮説がたてられているが、いまだに解明されていない。それだけに謎が深まるだけである。
2回目は最も西側に描かれているハチドリです。
この絵は全長96mとのこと、わりとわかりやすく、写真にも納めやすかったでした。もっとアップの写真も撮ったのですが、まわりの状況がわかりやすい写真を掲載しました。
2011.9.21撮影
ペルー ナスカ ナスカの地上絵1 マチュピチュと並んで有名なナスカの地上絵、ペルーまで来て行かない手はありません。というわけで、我々もリマからの日帰りツアーを組んでもらいました。当初お昼のフライトの予定でしたが、朝の方が視界が良いとのことで、早朝リマを車で出発し、3時間程でピスコ空港に到着、ここから飛行機で往復を含め1時間40分程遊覧(地上絵観察時間は30分程)し、ナスカの地上絵を堪能しました。
地上絵は広大な大平原(パンパ・インヘニオ)を覆った黒い石や砂をどけて白っぽい地面を出すことによって描かれているだけのため、ガイドが案内してくれるにもかかわらずなかなか気がつくことができず、写真に納めるのは難しい作業でした。とりあえずいくつかは確実に納めることができたため記念に掲載しました。
1回目はミラドール(観測塔)近くに描かれた3つの絵です。
わかりやすい絵から解説しますと、ミラドールの斜め右下に描かれているのが「手」です。下のほうに両手のひらを広げているのがわかります。全体の長さは45m程とのことです。ミラドールの左側に見えるギザギザした形が「木」です。写真の下側に向かって根っこが伸びて、上側に木の枝が伸びています。全体の長さは97mとのことです。「木」の絵からさらに左側に「トカゲ」の絵がある(道路を挟んで斜め右上に向かって胴体と前足と頭、「木」と同じ側に長い尻尾、全長が187mとのこと)のですが、写真では尻尾と前足がなんとなくわかる程度です。残念ながらその場では気づくことができませんでした。
2011.9.20撮影
ペルー クスコ郊外 サクサイワマン クスコ北西にある堅固な要塞跡。スペイン人への反逆を企てたマンコ・インカが1536年5月この要塞に2万の兵士とともに陣取り戦ったが、作戦は失敗に終わった。夜は戦わないインカ兵はその隙を突かれ、約20mあった城壁もその上にそびえていた円塔も大部分が壊されてしまったとのことでした。サクサイワマンの遺跡は巨石を3層に積み上げられ、ぴったりとかみ合った石組みの技術は、インカの技術を象徴するものである。なお、場所によっては高さ約7m、重さ約120tもある巨石が使われているとのことでした。
この近辺はインカ時代の遺跡がいくつかあり、ここサクサイワマンを含め4つの遺跡(他はケンコー(祭礼場跡)、タンボ・マチャイ(沐浴場跡)、プカ・プカラ(要塞跡))に入場できる共通入場券がありました。この共通券はUS$では購入できない(ペルーではUS$が普通に使えていたのですが)とのことでしたが、両替商のお姉さんが近くに居て、当たり前のように両替してくれました。(・・・・?)
どの遺跡も郊外の広大な自然の中にある感じで、これらの場所とクスコの街との兼ね合いが不可思議に感じられました(一説では地下道で結ばれていたようとのことでした)。
2011.9.19撮影
ペルー マチュピチュ その2 前回の説明文の雰囲気を味わってもらおうと、撮影した写真を張り合わせてみました。左側の写真はマチュピチュ遺跡の発見者ハイラム・ビンガムにちなみペルーレイル社が運営する豪華列車ハイラム・ビンガムの出発風景。1日1往復で乗客も1車両分に限られており、ブランチやディナーを楽しみながら往復する事ができる。我々のときも十数名の客しかいなかった。中央下の2枚の写真はマチュピチュ駅とマチュピチュ駅からマチュピチュまでの登山道をマチュピチュから望んだものである。マチュピチュ駅から400mを登るのにいかに急勾配であるかがわかる。中央上の写真はガイドの説明を聞いている間に天気が急変し、雲が谷側から湧いてきて都市を覆い隠そうとしているのを撮影したものである。さっきまで見えていたマチュピチュ山もかすんでしまっていた。右側の写真はインティワタナ(日時計)のある丘(上の写真)と太陽の神殿(下の写真:望遠の威力で撮影)、右側中央の写真がインティワタナ(日時計)である。
2011.9.19撮影
ペルー マチュピチュ ジグザグに造られた山道をバスで登っていくと目の前に石造りの都市が現れる。それが「空中都市」と呼ばれるマチュピチュだ。15世紀前半スペインにより滅ぼされたインカ帝国はその都市をスペイン軍にことごとく壊されたが、標高2400mに造られたマチュピチュは発見されることなくほぼ無傷のまま残され、インカ帝国の滅亡から400年近くを経過した1911年ハイラム・ビンガムによって発見された。マチュピチュはクスコからウルバンバ川に沿って約114km離れた奥深いジャングルの中にある。標高2940mのマチュピチュ山(ケチュア語で「老いた峰」の意味)と標高2690mのワイナピチュ山(ケチュア語で「若い峰」の意味)を結ぶ尾根(標高2400m付近)にあり、麓からは約400mの標高差がある。断崖と尖った山々に囲まれ、はるか下を流れるウルバンバ川流域は密林に覆われたジャングルになっており、麓からその姿は見えず、空中からしか存在の確認ができないことが「空中都市」と呼ばれる所以とか、ガイドブックに書いてありました。その素晴らしさは必見の価値ありでした。
2011.9.18撮影
ブラジル/アルゼンチン国境 イグアスの滝 ブラジル側から見たイグアスの滝 我々が宿泊したホテルはブラジル側のイグアスの滝の国立公園内にあり、その前の展望台より正面にイグアスの滝を望むことができる。この滝の部分は最も下流側に円弧を描いた形で広がっている部分であり、様々なジャングルツアーが楽しめる場所でもある。また、対岸の滝の中央部にはアルゼンチン側の遊歩道が滝の横までせり出しており、水しぶきを浴びながら見学している人々を遠めに見ることもできる。
2011.9.18撮影
ブラジル/パラグアイ国境 イタイプー・ダム フォス・ド・イグアスの町から約20km離れたブラジルとパラグアイの国境パナマ川に造られたイタイプー発電所は世界最大の出力を誇る発電所で、両国の共同事業として1975年に着工、1984年に送電を開始。主要ダムの長さは1406m、すべてのダムの総延長は8km、高さは185m、貯水池面積1350平方km(琵琶湖の2倍)、貯水量2010億立方m、水の排出量は毎秒58,000立方km(イグアスの滝の約20倍)、出力70万kw/hの発電機が20基あり、全てを作動させると1400万kw/hの発電が可能となり、エジプトのアスワンハイダムを抜き世界一の総出力発電所となるそうです。ちなみに、発電された電力の半分はパラグアイに権利があるが、消費しきれないほどの電力量だとか。
写真で見ていただくとわかる(?)ように、スケールの大きさが日本のダムとは比べものになりません。圧巻は上流のダム湖(右上の写真)琵琶湖の倍ほどの面積ということで、対岸が水平線のようにしか見えていません。また、コントロール室(右側中央の写真)が国境をまたいで造られており、左側がパラグアイ、右側がブラジルになっていた。当然(?)、ダム内はパスポートなしで両国を行き来できました。
2011.9.17撮影
ブラジル/アルゼンチン国境 イグアスの滝 両国より見た「悪魔ののどぶえ」 イグアスの滝のハイライト「悪魔ののどぶえ」は数ある滝のなかで最大のもの。アルゼンチン側は滝の上から滝が落下するさまを目の前で見られる。ブラジル側は下流側から、滝が落ちてくる様子を見ることができる。ただし水量が覆いのでともに水蒸気や水しぶきがすごく滝の全貌を見ることは難しい。アルゼンチン側は滝の上なので多少濡れる程度だが、ブラジル側は展望台近くの滝の水しぶきが凄く、一瞬でびしょ濡れになってしまいます。カメラもレンズがすぐ濡れて、なかなか思ったような写真を撮ることができませんでした。
写真は左側がブラジル側の展望台から撮影したもので、中央奥が「悪魔ののどぶえ」です。でも水蒸気でほとんど滝自体は見えていません。右側がアルゼンチン側から撮影したもので、滝より上にはあまり水蒸気が上っていなかったため、部分的に落ち込むところが撮影できました。また、以外にも落ち込む部分に段差ができているのがわかりました。
2011.9.17撮影
ブラジル/アルゼンチン国境 イグアスの滝 (遊覧ヘリより撮影) ブラジル、アルゼンチンの国境沿いにあるイグアス川、亜熱帯の密林に覆われた大地を豊かな水量をたたえて流れている。その川面が突然、大地の緑に飲み込まれたかのように全長4Km、落差80mの間に大小300の滝が段を成して連なり、白煙を上げて世界最大の大瀑布を形成している。
イグアスの滝は1億2000万年前には既に存在したと考えられており、古くから先住民族の間では聖地としてあがめられていた。西洋に知られたのは16世紀中頃、探検家アルヴァール・ヌニュス卿が探検途中に偶然遭遇したことによる。1986年に世界遺産に登録されているとガイドブックに書かれていました。
訪れた年にはアルゼンチン側の遊歩道の一部が流されたとの情報もあり、最大の滝「悪魔ののどぶえ」を滝の上から間近で見られない可能性もありましたが、幸いにも修復され、堪能することができました。それにしても自然の凄さを見せつけられた感じでした。
写真は北(ブラジル)側から撮影したもので、左側に見える白煙が「悪魔ののどぶえ」から吹き上がっている水蒸気。白煙横に見える展望橋が対岸(アルゼンチン)までつながっているのが見える。「悪魔ののどぶえ」を間近で感じるには1Km以上あるこの橋を徒歩で渡っていく必要がある。右奥の密林の中に見える建物付近がアルゼンチン側の入口でここから鉄道と徒歩で張り巡らされた遊歩道を利用することで滝のあちこちに行くことができる。ブラジル側は川岸に遊歩道が作られており、手前に見える建物付近からエレベータで遊歩道まで降りることができ、そこから展望橋へと進んで行くと滝の水しぶきを浴びながら「悪魔ののどぶえ」を川下側から見ることができる。
2011.9.16撮影
ブラジル リオデジャネイロ ポン・ジ・アスーカル ウルカ海岸とベルメーリャ海岸の間にある小さな半島に突き出した奇岩。ポン・ジ・アスーカルとは「砂糖パン」という意味で、その昔、ポルトガルのマデイラ島の砂糖を盛り付けた様子に似ていることから付けられたと云われているとのこと。頂上に立つには半島の付け根あたりから2つのロープウェイを利用して行く事ができる。まず、ベルメーリャ海岸近くにある第一ロープウェイ乗り場から海抜220mのウルカの丘へ、さらに第二ロープウェイに乗り、海抜396mのポン・ジ・アスーカルの頂上に向かう。頂上からの眺めは最高で、リオデジャネイロの市内を一望できるだけでなく、有名なコパカバーナ海岸やコルコバードの丘も眺望できる。コルコバードの丘の次に訪れましたが、ここも人気のある場所だけあり、多くの観光客でにぎわっていた。また天気も良く眺望を楽しむことができました。
左下の写真はコルコバードの丘から見たポン・ジ・アスーカルとウルカの丘。左上の写真はウルカの丘から見たポン・ジ・アスーカル。右側の写真はポン・ジ・アスーカルから見たコパカバーナ海岸とウルカの丘。写真には写っていないがウルカの丘の右側後方にコルコバードの丘がある。
2011.9.16撮影
ブラジル リオデジャネイロ コルコバードの丘 海抜709mの絶壁に立つキリスト像はリオデジャネイロのシンボル。1931年に建造されたこの像の高さは30m(台座を含めると38m)、横一文字に広げた両手の幅は28m、重さは1145tという巨体。「このコルコバードの丘に登ると、リオデジャネイロ全体を箱庭のように見渡すことができる。特異な姿をした山々を結ぶように海岸線は白い弧を描き、入り組んだ空間に林立するビル群は、複雑なモザイク模様を造りだしている。雄大でしかも繊細な景観は息を呑むほど美しく、「神の創造」を感じさせずにはおかない。」とガイドブックに記載されていたが、まさにそのとおりという感じでした。
朝一番の登山電車で行きましたが、多くの観光客で電車はほぼ満席で、いかに多くの人々が訪れるかを肌で感じ取ることができました。
2011.9.15撮影
ドイツ ミュンヘン 新市庁舎/レジデンツ ミュンヘンはバイエルン王国の都として栄えた都市でベルリン、フランクフルトに並ぶドイツを代表する大都市。この地にはバイエルン王国時代に築かれた歴史的建造物を中心に観光名所が存在する。特にマリエンプラッツ駅周辺には徒歩で散策できる範囲に集中している。新市庁舎のあるマリエン広場、レジデンツはそれらの代表格である。新市庁舎は新が付くだけに19世紀後半に建てられた新ゴシック様式の建物だが、街並みが見渡せる塔は85mの高さがあり、塔の中ほどにある仕掛け時計(1568年に行われた侯爵ヴィルヘルム5世の結婚式を32体の人形が再現)は毎日決められた時間に音楽とともに動き出す。時間が近づくと仕掛け時計が動くのを見ようと多くの観光客がマリエン広場に集まってきていた(我々もその一員でした)。そこから300m程北にあるレジデンツは14世紀末にヴィッテルスバッハ家ノシュテファン3世により建築された宮殿で、幾度もの増改築により、ロココ、バロック、新古典主義の各様式が混在している。街中にあるため、外観全体を写真に収め、これがレジデンツですと伝えることは難しいが、数ある庭園やホール、彫像は王国の華麗な宮殿を印象づけるものであった。写真は中でも有名な骨董の間(アンティクヴァリウム)を撮影したものである。
2011.9.15撮影
ドイツ バイエルン・シュヴァーベン地方 ヴィース教会 ノイシュヴァンシュタイン城のあるホーエンシュヴァンガウから約20km北東にあるシュタインガーデンの草原に建つこじんまりとしたクリーム色の教会。この小さな教会が世界遺産にも登録されているヴィース教会でした。ホーエンシュヴァンガウからはバスを乗り継いで行く事ができました。ヴィース教会とは「草原の教会」という意味で、この教会が非常に有名なのは、18世紀に起こった「ヴィースの奇跡」といわれる伝説から建てられたカトリック教会だからとのこと。
1732年、ヴィース教会に近いシュタインガーデンの修道院に「鞭打たれるキリスト」の像(右下の写真)がもたらされたが、このキリスト像は血を流す姿があまりにリアルで悲惨だったため、嫌われて飾られることなく修道院の屋根裏に長い間放置されたままになってしまった。それを見つけたマリア・ロリーという名の農婦が哀れに思ってこの像を譲り受け、熱心に祈りを捧げ続けた。すると、数ヵ月後の1738年6月14日、なんとキリストの像が涙を流し始めたのでした。
この奇跡に驚いたロリー夫妻は、この像「鞭打たれるキリスト」を牧草地にあった小さな礼拝堂に安置した。この奇跡はまたたくまに広がって、やがて多くの人が巡礼してくるようになり、その後、この像を拝んだら病気が治ったという新たな奇跡話なども加わり、巡礼者がどんどん増えて小さな礼拝堂では手狭になってしまった。そこで新しく建設されたのがヴィース教会だそうです。
交通の便があまり良くない地にありながら、結構多くの人々が訪れていて、驚いてしまいました。
2011.9.14撮影
ドイツ バイエルン・シュヴァーベン地方 ノイシュヴァンシュタイン城 バイエルン国王ルートヴィヒ2世が残したノイシュバンシュタイン城は、中世騎士の城をイメージして贅を尽くして建てられた神秘的でメルヘンチックな城。標高1000mの崖の上に立つ白亜の城は優美な外観はもちろん、ワーグナーのオペラ等をテーマにした豪華な城内もすばらしい。外観の美しさから、ディズニーランドのシンデレラ城のモデルにもなり、映画「チキチキバンバン」のロケにも使われたとのこと。
ノイシュバンシュタイン城に向かうための起点となる麓のホーエンシュヴァンガウからは馬車もしくはミニバスで城の近くまで行くことができる。当然徒歩でも可能だが数十分の山登りとなる。また、ホーエンシュヴァンガウにはルートヴィヒ2世の父、マクシミリアン2世が建てたホーエンシュヴァンガウ城があり、こちらも見学可能である。残念ながら2つのお城とも城内撮影は禁止でした。
ノイシュバンシュタイン城見学コースの最後に調理場があるのですが、ここの設備は近代的で、それまで見学してきた城内とは異質な感じでした。築城が19世紀末なので、こちらは時代を反映しているのですが、中世から近代にタイムスリップしてしまったように感じてしまいました。ちなみにここは撮影okでした。
2011.9.13撮影
オーストリア ウィーン 国会議事堂の夜景 オーストリア国会議事堂は、コペンハーゲン生まれの建築家、Theophil Hansen によって民主主義の象徴として19世紀に建造され、民主主義が始まったギリシャのアクロポリスをモデルとして作られているため、特徴のある外観をしている。オーストリア議会は二院制で、下院にあたる国民議会と、上院にあたる連邦議会がある。アクロポリスにはパルテノン神殿と大小の劇場があるが、この国会議事堂はアクロポリスのデザインを取り入れつつ、2つの劇場がこの2院の議場に、神殿が2院をつなぐ建物になるように設計されているらしいです。国会議事堂は国会が開かれていない平日には内部も公開されているらしいが、我々はリンク沿いにある有名な建物の外観写真のみを撮影して周ったため、それを確認することはできませんでした。
さらに夕食後、国会議事堂や市庁舎の夜景を撮って周りましたが、残念ながら三脚を持っていかなかったため、掲載した写真でわかりますように、少し手振れの影響のある写真になってしまいました。
2011.9.13撮影
オーストリア ウィーン郊外 シェーンブルン宮殿 シェーンブルン宮殿は、1695年レオポルド1世が夏の離宮としてハプスブルク家の狩猟の森に建てた宮殿で、フィッシャー・フォン・エアラッハ設計のバロック様式だそうです。ハプスブルク王朝の歴代君主が主に離宮として使用していた。マリア・テレジア(1740年に23歳の若さで即位し、強靭な精神力と巧みな政治手腕で帝国に繁栄と安定をもたらしました)はこの宮殿を居城にすることに決めて、ピンクの壁をイエロー(当初金を塗る予定だったが財政の状況を考慮して黄金に近い色にしたと言われる。これをテレジア・イエローと云うが、彼女が好んでいた色というわけではないとのこと。)に塗り替え内装はロココ様式に統一するなどの増改築を行った。建物は、あらゆる部屋を合計すると1,441室あり、両翼の端から端まで180mあり、正面右側翼には宮廷劇場がある。また、広いフランス式庭園を挟んで宮殿に向かい合う丘の上にはグロリエッテという対プロイセン戦の勝利と戦没者の慰霊の為に立てたギリシャ建築の記念碑(未完成とのこと)があり、ここからは周囲が一望できる。庭園は東西約1.2km、南北約1kmの規模で、1779年頃から公開されているらしい。
ここも2回目の訪問であったが、今回は宮殿内部や中庭だけでなく丘の上にも登り、グロリエッテを間近で見たり、周囲の眺望を楽しんだりしてきました。それでも動物園や日本庭園までは足を延ばすことができませんでした。写真は丘の麓にあるネプチューンの噴水横より宮殿を撮影したものです。
2011.9.13撮影
オーストリア ウィーン シュテファン寺院 ウィーンのシンボル・シュテファン寺院は、オーストリア最大のゴシック建築物で、異教の塔と呼ばれる正面左右の塔とリーゼントアー(正面入り口)は、現存する最も古い部分で13世紀に建てられたものとのこと。また、市民からシュテッフル(Steffl)と呼ばれている南塔は高さ137mで、寺院の塔ではウルム大聖堂(161m)、ケルン大聖堂(157m)についで世界3位の高さだとか。343段の階段で73mまで登れる。北側の塔にはエレベーターがあり、高さ60mのテラスまで行く事ができる。屋根瓦で描いたモザイク画や紋章は外観を一層際立たせている。
左の写真は南側から撮影したもので南塔がその高さを誇っている。右の写真2枚は北塔のテラスから撮影したもので、屋根瓦によるモザイク画と紋章および北側の塔の下の様子を見ることができる。この地は2006年以来5年ぶり2回目の訪問であるが、前回は何故か南塔の写真が北塔の屋根越しに見た写真しかなかっったので、しっかり収めてきました。
2011.9.12撮影
インド アーグラー郊外 ファテープル・シークリー ムガール帝国第3代皇帝のアクバル帝によって建てられた都。世継ぎに恵まれなかったアクバル帝が、預言者サリーム・チシュティーを頼ってこの地を訪れ、預言通りに3人の息子を授かったため、1574年この地に都を移した。同時にグジャラート地方の制圧にも成功したため、ここを「勝利の都(ファテープル・シークリー)」と名付けたそうです。しかし、水不足と猛暑で1588年までのわずか14年で都の役目を終え宮殿は廃墟となってしまったとのこと。
都は台地の上に建設、直行するグリッドに則した幾何学的な都市計画が実施されており、その中心部は、宮廷地区とモスク地区とに分けられている。ほとんどの建築物が赤砂岩によって建設され、贅を尽くした皇帝のこだわりがいっぱいあり、土着の建築文化とイスラーム建築の融合がなされた都市遺跡である。
訪れたのが午後であったため、宮廷地区の多くの建物が逆光となり、赤砂岩の輝きをうまく撮影できなかったが、写真のディワーネ・カース(皇帝の私的な謁見のための建物)は順光で撮影できました。赤砂岩で作られているはずだが、木造建築のように見える不思議な建築物でした。
2011.9.12撮影
インド アーグラー アーグラー城 1565年から約10年をかけ、ムガール帝国第3代皇帝のアクバル帝によって建てられた要塞。その後第4代皇帝シャハンギール、第5代皇帝シャー・ジャハーンもこの城を拠点としたため、それぞれの皇帝によって造られた個性あふれる建造物が存在する。王族の住居や謁見の間、モスクなどがあり、それぞれの美意識が競い合う「モニュメントの博物館」となっている。この城はデリーのラール・キラー(下記2013.8.18掲載参照)と同様に「レッド・フォート(赤い城)」と呼ばれることもあり、高さ20mの城壁が2.5kmにわたって延々と続く赤砂岩の城壁に囲まれた、ムガール帝国の権力と繁栄のシンボルである。見所も多く、特にヤムナー河越しに見えるタージ・マハルは、第5代皇帝シャー・ジャハーンに思いを馳せることができる。
ムガール帝国の栄華を刻んだ場所であり、数々の内部の建物は繁栄を感じさせるものであった。だが、やっぱし、大理石でできた謁見の間の座椅子(?)に鎮座し、そこから見るシャー・ジャハーンが晩年幽閉されたムサンマン・ブルジョとヤムナー河岸に見えるタージ・マハルは妙に目の奥に焼き付いてしまいました。
2011.9.12撮影
インド アーグラー タージ・マハル 世界でもっとも美しい霊廟とよばれるタージ・マハルは、ムガル帝国の第5代皇帝シャー・ジャハーンが、若くして亡くなった最愛の王妃ムムターズ・マハルのために建てた白大理石造りの巨大な建造物である。
シャー・ジャハーンは、砂漠の民イスラムがインドに侵攻してムガル帝国を樹立してから100年、帝国の絶頂期に皇帝となった人物で、王妃ムムターズ・マハルを限りなく愛し、戦場にさえ連れて行き、14人の子どもを創るが、王妃は出産後、36歳の若さで亡くなってしまう。皇帝は深く悲しみ、世界各地から最高の職人と材料を集め、イスラム様式の壮大な白亜の霊廟を22年の歳月を費やし築いた。また、自身の霊廟をヤムナー川の対岸に黒大理石で造り、タージ・マハルと橋でつなぐ計画を持っていたが国力の低下でかなわず、次の皇帝三男のアウラングゼーブ帝によりアーグラ城に幽閉され、その夢は果たせませんでした。幽閉された城の塔からタージ・マハルを眺めることが、シャー・ジャハーン晩年の唯一の慰めであったと言われている。なお、シャー・ジャハーンは今、最愛の王妃ムムターズ・マハルとともに、タージ・マハルに眠っているそうです。
訪問した時は、早朝に雨が降った後で、非常に湿度の高い朝靄の中に白い大理石が浮かび上がる霊廟でした。もっとも美しいといわれる日の出に照らされる霊廟というわけにはいきませんでしたが、その美しさには納得することができました。
2011.9.11撮影
インド デリー フマユーン廟 フマユーン廟は、ムガール帝国の第2代皇帝であったフマユーンが眠る霊廟。霊廟はフマユーン帝の冥福を祈って、妃の一人であったハジ・ベガ(Haji
Begum)が1565年(皇帝の死後9年目)に建てさせ、1569年に完成したものである。庭園の中の廟としては、インドで最初の建物で、中央にそびえるドームの高さは42.5m、建物と庭園全体は左右対称に配置されており、前後左右どちらから見ても同じ形になっている。この見事なシンメトリーのシルエットは、ムガール帝国初期を代表するインド・イスラーム建築の傑作として世界遺産にも登録されている。かのタージ・マハルも影響を受けたと云われるだけあって、ディテールにもたくさんのこだわりがあるとか・・・。霊室の中は、中央にフマユーンの棺が安置されている。ほかにも歴代の皇帝をはじめとして一族の棺がいくつも置かれている。
訪問した時は一部が工事中で、覆いで隠された部分があり、完璧なシンメトリーのフォルムを見ることはできなかったが、アーチや色調だけを見ても、何となくロマンチックになってしまうような気がしました。
2011.9.11撮影
インド デリー ラール・キラー ラール・キラー(レッド・フォート)Lal Qila(Red Fort) :ムガール王朝の都だったオールド・デリーの北東側にある赤砂岩で作られた城。周囲2kmの不規則な八角形の型をしている。この城は、アグラからデリーに都を移した、第5代皇帝シャー・ジャハンによって9年の歳月を掛けて完成された。そしてここに、「シャージャハナバード」(Shah
Jahanabad)として知られる第7番目の都が開かれた。一般にはデリー城とも呼ばれている。1857年の「セポイの反乱」でイギリス軍に内部を造り替えられたため、現在、見学できるのは一部のみとのことだった。
訪問したのが日曜日のお昼近くだったためか、結構多くの観光客が訪れており、外観とは対照的な贅を尽くした優美で瀟洒な宮殿を感慨深げに眺めている感じでした。
2011.9.11撮影
インド デリー ジャマー・マスジット ジャーマ・マスジット(Jama Masjid)は、インドで最も大きいイスラム教のモスク。収容人員は約25,000人ともいわれており、ムガール皇帝シャー・ジャハーンによる最後の建築物といわれている。1656年よりムスリムの祈りの場として利用され、今も毎週金曜日には敬けんな信者たちであふれかえっている。中には内庭が広がり、東の門の桟敷は大理石の板を席とした貴賓用と、砂岩の四角い板を席とした庶民用とに分れていて、大きな礼拝はすベてここで行われる。また、この礼拝堂が頂く3つのドームは白と黒の大理石でストライプ模様に装飾されており、タージ・マハルやラール・キラーとともに皇帝シャー・ジャハーンが残した傑作の一つに数えられている。ジャマー・マスジットはオールドデリーの中心で門前町ができており、周囲にはバザールを中心とした街並みがいくつも存在し、でごった返していました。
訪問したのが日曜日の午前中だったためか、のんびりとした雰囲気が漂っており、訪れている人ものんびりと時間を過ごしているようにも見えました。ただし、ここはモスクなので当然土足厳禁。だけど中庭には多くの鳩が飛び交っており、あちこちに糞が落ちていました。気をつけてはいましたが、当然、靴下は・・・。
2011.9.11撮影
インド デリー クトゥブ・ミーナール 「ミーナール」とはミナレット(尖塔)のこと。西暦1200年にデリーの最初のイスラム教の支配者であるクトゥブッディーン・アイバク王によって、ヒンズー教徒に勝った戦勝記念として建造された。その後、後継者が増築し、現在の規模になったとのこと。このミナレットは72.5m、世界で最も高いミナレットだが、地震や落雷などで先端が崩れ、修復された姿らしい。当初は約100mの高さがあったという。太さは基底部直径14.3m、先端部2.75mで、1993年、世界遺産に登録された。以前は塔に登れたらしいが、転落事故があってから登れなくなっているそうです。
デリーの南端にあり、中心部からは遠いけれど、はずせない観光スポットのようで、朝割りと早い時間に訪れたのですが、多くの観光客でにぎわっていました。
また、隣にはさらに大きく高い塔を建てようとした残骸(アラーイ・ミーナール)が台座部分だけ残っていました。