東ヨーロッパ旅行
〜ポーランド:アウシュヴィッツ〜

クラクフに着いた後はバスでオシフィエンチムに移動。この地名でわかる人は少ないかもしれませんが、旧名アウシュビッツといえばわかる人が大勢いると思います。第二次大戦時にナチスドイツ最大の強制収容所があった場所であり、アンネ・フランコやコルペ神父らが収容された場所です。現在は博物館になっており、当時の悲しい状況を現在に伝えるべく高圧電流が流れる有刺鉄線や赤煉瓦造りの囚人棟が当時のまま残っていた。

中に入ると、何故こんな悲劇の場所が存在したのか信じられないような当時の情景を見せられてしまい、いろいろと考えさせられてしまった。2度と訪れたいとは思わない場所であるが、最近の世界情勢を見ると、いつまたこのような悲劇が繰り返されてしまうかわからなくなってきている。1度は訪れて正当性の主張を裏側から見つめ直してほしいと思ってしまいます。

アウシュヴィッツ収容所の地図                  
アウシュヴィッツという名はナチスがつけたもので、ポーランドでの正式名称はオシフィエンチムである。

ここは元ポーランド軍の基地であったため、煉瓦造りのしっかりした建物がならんでいるが、収容所での生活がどれだけ悲惨であったかが、内部に展示されているものを見ると見て取れる。

中には収容者達のカバン、靴、めがね、食器、歯ブラシ、松葉杖、髪の毛などが山のようにつまれたまま残されている。さらには収容者の毛髪で織られたカーペット、皮下脂肪で作った石鹸などが展示されている。(この光景を写真に収める気にはならなかったため、ここでは掲載していません)。

また、生物兵器を使った殺戮も行われており、毒ガスチクロンBが大量に使われていた。
※地図中の緑の矢印が写真を撮影した場所です。
A
オシフィエンチム駅
当時、ユダヤ人らは新天地での生活と思い、たくさんの荷物を持ってこの駅に降り立った。
B
博物館入り口
当時は、衛兵所・収容所事務長オフィスになっていた場所である。
C
囚人受け入れ所
突き当たりに見える赤い屋根のところが囚人の受け入れが行われた場所である。
D
収容所の正門
入り口の鉄門にはARBEIT MACHT FREI (働けば自由になれる)という皮肉なプレートが掲げられている。
E
焼却炉・ガス室外観
収容所の外にある焼却炉はゲシュタポ司令部の近くにあり、この場所にあったのには何か深い訳があったように思われた。
F
ガス室・死体安置所
最初、死体安置所であったこの場所はその後ガス室に改造され、ソ連の捕虜やゲットーから運ばれてきたユダヤ人が一度に1000人以上も毒殺された。
G
焼却炉
現在残されている2台(当時は3台設置されていた)の焼却炉。1日に350人の死体が焼かれていた。
H
収容所の周りの有刺鉄線
高圧電流が流されていたことが、柵と有刺鉄線の間にある碍子が物語っている。
I
林立する収容所
外観は収容所とは思えない雰囲気がある。
J
第4ブロック外観
収容所での悲惨な歴史が内部には展示されていた。
K
第4ブロック入り口
展示内容に圧倒されたのか、入り口には座り込んでいる人もいた。
L
第4ブロック内部
M
死の壁
第10、第11ブロックの間にある中庭は高い壁で区切られており、銃殺を行う場所になっていた。
N
第11ブロック入り口
地下には惨い監房がいくつもある。特に「立ち牢」は90*90cmに4人が収容されたとか。
O
第10ブロック横の壁
ここだけが中庭が見えないように壁が築いてあった。
P
監視塔
通路の向こうには監視塔が見える。

※枠のある写真をクリックすると拡大表示します。※時間は現地時間です。


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